ルカ 7:9 言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰をみたことがない。
「キリストを人に見せばやわれはそのかげにかくれてありとしらさで」
キリストにあって謙虚な気持がするのは、明治の歌だからでしょうか。いつだったかある本で読みました。トスカニ-ニという偉大な指揮者が、ベ-ト-ヴェンの第九のリハ-サルをしていました。その指揮振りの素晴らしさに楽団員たちは感動し、終ったときには全員が起立して彼に拍手を贈りました。するとトスカニ-ニは激しくその拍手をやめさせようとしました。拍手が小さくなったとき、目に涙をためて大声で叫んだそうです。「ほめられるのはベ-ト-ヴェンです。私はほめられる筋合いはありません」と言ったそうです。褒められるとは何かなと思います。
聖書の中で、イエス様は百人隊長の言葉に感心しておられます。弟子たちなどは、マルコ福音書で怒られてばっかりですが、それも一つのイエス様の関わり方なのでしょう。イエス様は人のことを無視されるわけでなく、何らかの方法で認めておられるように思えます。
今朝のテレビ情報番組で「ほめられサロン」の話がありました。ウェブページの「ほめられサロン」のところにいって、自分の名前と職業をいれると「00さん、素敵です」「00さん、声がすがすがしいです」「00さん、仕事できますね」などほめ言葉が画面にたくさんでてくるのです。それはもうたくさんのほめ言葉があります。形式だけとわかっていても、やっぱり嬉しくなります。子どものときは、たくさんほめられることもありました。大人になったら忠告されたり怒られたりすることはありますが、ほめられることも、ほめることも少なくなります。やっぱり、人はいくつになってもほめられることで、誰かに認められたいのでしょう。自分のやっていることをわかってもらいたいのでしょうネ。
神様は私たちのことをいつも見守っていてくれます。それは私たちの存在そのものを認めてくださっているからです。「ほめられサロン」で自分を確かめることより、この職場環境のなかでお互いを認め合っていけたらそれで充分なのでしょうね。イエスさまは「わたしはこれほどの信仰をみたことがない」と言われました。あなたを認めておられる方は、ここにおられますから。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>