ヨハネ 3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
ヨハネ福音書の中で、最も有名な箇所です。聖書の中で日本人が大好きな聖句です。愛唱聖句のトップにこの聖句が上げられます。神様が、独り子であるイエス様を十字架の死にわたしてまで、私たちを愛してくださったのです。私たちの罪を赦し、あがなうためです。「私たち」というより、これを読む人は「私」と置き換えます。こんな私のために、神様がそこまでしてくださったことに感謝するのです。
会話の中でよく聴く言葉「すみません」という言葉があります。本来「ありがとう」と言うところで、「すいません」といいます。何も悪いことはしていないのに謝っているように聞こえます。この「すみません」という言葉における、仏教のお坊さんの解釈を思い出しました。「すいません」という言葉は、「私」はこれまで多くの人、出会い、物、大自然のおかげで今日まで生きてくることができた。それに対して何一つ恩返しができていない。つまり「すみません(申し訳ない)」という気持ちを表した言葉ですと。あなたからの恩になにも返せなくて「すみません」ということだそうです。
昨日は老人ホームに一人の姉妹を訪問しました。姉は天草の地に派遣され、一人で教会と保育園を立ち上げ守り、宣教してこられました。苦しいことの連続だったようです。差別、偏見、貧しさ、村八分など、その思いでの一つ一つを涙を流して語られます。しかし、話が後半になると「イエス様と共にいたから」という言葉が何度もでてきます。「イエス様が守ってくれた」「イエス様が導いて教えてくれた」と。その時の顔は輝いておられました。イエス様が与えられていたことで十分だったと言われるのです。
神様から私たちが頂いたものを数えることができません。(あまりにも多くて)イエス様の命までも頂いたのです。神様に何を返していけばいいのでしょうか。いや、返すことを神様は望んでおられないと思います。「ありがとう」と感謝して受け取ればいいのです。そして、頂いた恵みを隣人と分かち合い、「あなたも神様から愛された存在ですよ」と伝え、隣人に仕えることが「すみません」の本当の生き方だといえます。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
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