マタイ 9:17 彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。
「言葉を失う光景」。被災地を訪問した多くのボランティアが語る言葉です。あまりにも衝撃的で、どのように受け止めてよいかわからない。信じられない光景が目前にあるため、そのような表現になると思います。しかし、気をつけておかねばならないことがあります。ボランティアが被災者からお聞きする話とその光景が結びついた時、言葉を失う光景として見ていたものが、直接感情(心)に入ってしまうのです。涙が流れて止まらなくなるボランティアもいます。言葉を失う光景が、自分の現実に入り込んでしまい、心が抜けられなくなるのです。深い悲しみに落ち込んだまま抜けられなくなり、身体に影響もでてきます。どこかで客観的に見ておかねば支援活動は難しいと思います。
マタイは、イザヤ書から引用された聖句をここに置いています。この言葉は旧約では民の苦しみを「主の僕」が身代わりになって受けることをのべています。イエス様の十字架の死が何であるかを、旧約聖書の預言の成就としてとらえています。イエス様の十字架の死の理解が示されています。私に直接ではなく、身代わりになってということに福音があります。
「人間の痛みとか、苦しみとは何のためにあるのだろう」と考えるときがあります。神様は何のために、私たちに痛みや苦しみをお与えになるのだろうかと。その度に与えられる答えは一つでした。「神様を知るため」です。私たちは痛み苦しみの中で、神様と出会うのです。子供が高熱をだして苦しんでいました。親として変われるものならば、その高熱を引き受けたいと思います。しかし、どうすることもできません。親はただ祈るのみです。娘にもそれを教えました。「苦しいけれどきっとイエス様がいっしょにいてくださるから。お祈りしようね」と。そして手を頭において祈ったのでした。日曜日の朝5時のことでした。昨夕からずっと眠りつづけていた娘がとつぜん、目をさまし、素晴らしい一言をいってくれました。「お母さん。もうなおったよ。きのうお父さんが頭に手をおいて祈ってくれたんじゃけえ、神様がなおしてくれたんじゃあ」と。娘にとってはとても苦しい出来事だったに違いありませんが、共にいて下さる神様を知ることができた貴重な体験だったと思います。
マタイ福音書では、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」とあります。彼とはイエス様です。イエス様は十字架の苦しみによって、すべての苦しみを負ってくださった。私たちが直接負わねばならないものを、代わって苦しんでくださったのです。苦しみの人生もイエス様のみ言葉を通してみなければなりません。なぜ私はここに遣わされているのか。その答えはすべてみ言葉の中にあります。
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