マルコ 10:18 なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
物事を判断するということはとても難しいと言えます。どうしても先入観が先に立ってしまいます。自分では正確に判断したつもりでも、その判断にはなにかしら影響しているものがあります。まっさらな自分で判断することができれば、良いか悪いかがわかるのですが。結局一つの判断基準を持たされてしまっているなと思うことがしばしばあります。
本日の聖書は、イエス様が旅に出ようとしたとき、ある人が走り寄ってイエス様に質問をします。彼は金持ちだったと聖書は記しています。質問の内容は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」というものでした。それに対してイエス様は「十戒」を守る事、財産のすべてを施して「神様に従うこと」と答えます。その前に、イエス様は彼の質問の最初の「善い」という言葉に注目しておられます。なぜ私を「善い」というのかと。
ある会社の事務所には、働いておられる方の趣味で熱帯魚がたくさん飼われています。その水槽のなかに、一見グロテスクなものがいます。どうもナマズの一種のようで、水槽のガラスに張り付いて、あっちこっち移動しているのです。どうして、このようなナマズをと聞きましたら、実は水槽の掃除をするのだそうです。つまりゴミ処理魚というわけです。そこでよくみていますと、水槽をあっちこっちしながら、苔をたべています。また、魚のフンや、その他ゴミといわれるものを食べています。話によると、この一匹で、水槽はとても奇麗なのだそうです。ところが、問題は成長も一番早いとのこと。水槽を眺めながら、表で働いているものもいれば、裏でいつも働いている者があり、共同して生きているのだと感じました。どちらが表でどちらが裏という考えも間違っていますよね。この両方が、その命では表です。そしてこの命を支えておられる神様がいらっしゃるのです。
イエス様は「なぜわたしを善い」というかと言われました。善い先生、悪い先生ということを決めるのは自分の問題であって、神様の問題ではありません。神様に対して、善い神様ならきく、善くない神様なら聞かないというものはありません。神様に対しては従うことのみです。私たちに今日与えられた働きも「善い」「悪い」はありません。すべては神様から与えられた働きしかないのです。だからこそ、小さいと思える仕事でも誠実に行うことを求められています。
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