マタイ 6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
私たちの生活は、自分たちだけで生きているわけではありません。私という一人の人間が生きていくうえで、数知れない命が自分の知らないところで用いられていきます。食べ物ひとつとってみても、私の存在のために毎日毎日その命を犠牲にしているものがあるのです。そのことを神様は赦しておられ、私たちのために配慮してくださっています。生きるということは、やっぱり感謝からはじまります。感謝と共にあるのが赦しです。
イエス様は弟子たちに、祈りを教えられました。それが「主の祈り」です。本日の箇所はその「主の祈り」のすぐあとに教えられたものです。「主の祈り」でも「赦す」ということが出てきますが、再び繰り返しておられます。私たちにとって、「赦すこと」「赦されること」の難しさを指摘されているようです。
事務局長時代のことですが広島教会で、信徒M兄の葬儀に参加しました。そこで配られた式次第には、教会の月報「さえずり」に書かれた兄の証言が印刷されてありました。その冒頭に「私の青春時代の幕開けは原爆ではじまったのだ」と書かれてありました。兄が被爆者であったこと、どのような体験をされたかは、このたった1回限りの証言原稿しかありません。13歳で原爆を受け、65年もの間、苦痛、苦難を心に納めてこられたのです。73歳になった時、この原稿は書かれています。その時、はじめて平和資料館をみられ、そこで働くボランティアの人たちに心から感謝したと書かれてありました。生きたまま地獄を経験され、生き延びた苦痛と苦難のなかでキリストに出会い、赦すこと、赦されることの中で生きてこられた生涯でした。
イエス様は「人の過ちを赦すなら、天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」と教えられました。何が過ちであったか、それを深く考えねばなりません。私たちも多くの過ちを犯します。その過ちを見つめ、悔い改めたとき、人の過ちも受け止めることができるようになります。
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