ヨハネ 4:23 まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。
私たちのもとから一人の兄弟が天に召されました。今日が誕生日で56歳になられるはずでした。心筋梗塞という急な病気で、あっという間に私たちのもとから神様のもとへいかれました。本当に優しい方でした。とくに弱い方々、子どもたち、お年寄りには優しく、みんな彼の笑顔が大好きでした。「どぎゃんでしょうかね~」が口癖でした。絶えず他者のことを考えておられました。「どぎゃんでしょうかね~」の言葉の中に、暖かい優しさをいつも感じていました。その優しさの横にはいつもイエス様がおられたのでした。
イエス様は旅の途中で、サマリアの町に行かれました。そこで一人の女性と出会います。サマリアにおける伝道の記事はヨハネ福音書だけにしかありません。ユダヤ人とサマリア人との間には長い対立があり、礼拝(神殿)も違うところで行っていました。礼拝の場所が違うとうことは、交わりの拒否を意味します。しかし礼拝とは神様との交わりであり、神様が細かな配慮をして、私たちに仕えて下さる場です。まことの礼拝とは何かをイエス様は教えられたのです。
ネットニュースで見つけた話です。先日亡くなった米アップルの共同創業者のスティーブ・ジョブス氏はサービスにも厳しかったそうです。ある寿司屋で従業員がお茶をつぎ足した直後、「ねえ、サービスって何だと思う?」とカウンターの職人さんに突然聞いてきたそうです。「客が店に行くのは、おいしいか、サービスがいいかどちらかだ。ここはおいしいから来ている」と言った。すぐに職人さんは、温かいお茶と差し替えるべきだったと気づいたといいます。ただお茶をだせばよいというものではなく、細かいところまで行き届くのがサービスなのでしょう。そのことに気づくセンスをもっているだろうかと思います。教会の礼拝もサービスといいます。教会も牧師も配慮というセンスをどこまで気づいているのかと考えさせられました。
イエス様は「まことの礼拝をする者たちが」と言われました。この「まこと」とは何かと思います。礼拝とは神様と信じる私たちとの交わりの場です。神様はきめ細かな配慮をもって私たちを迎えてくださいます。それにきがつくセンスとは何でしょうか。教会の敷居が高い、牧師の説教がわからない、交わりが苦痛という言葉が聞こえてくるたびに悔い改めをせまられています。
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