箴言 3:6 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
「いらん世話(よけいなこと)をするな」と、あるボランティアが言われて落ち込んでいました。誰かに仕えたいという熱心さが、その言葉を聞いてよけいに彼を落ち込ませたのかもしれません。しかし熱心になるあまり「してあげる」という思いから抜け出せなくなっていたのも事実でしょう。パウロは「互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)と教えました。互いに仕えあうというのは、決して「してあげる」というだけの関係ではありません。神様が私たちを使ってくださり、私たちを通してその栄光を表わしてくださる。神様の道とはそのようなものだといえます。
今日から少し旧約聖書の箴言を読みながら朝礼拝を行ってまいります。この箴言は「わが子よ」という呼びかけにはじまります。子どもの徳育・教育の主要な責任は父親にあり、教育の場は家庭の母親が整えていました。この章も「~するな」「~せよ」が繰り返されます。しかし「なぜそれをするのか」の結論は、きちんとのべられています。その中心となるのが、神様を信頼し、共に歩むということです。
放浪の詩人「種田山頭火」の句に、「まっすぐ」という言葉入りものがいくつかあります。有名なものは「まっすぐな道でさみしい」という句です。同じような句で「分かれてきた道がまっすぐ」があります。山頭火は、行く道ときた道の両方に「まっすぐ」という表現をつかっています。この「まっすぐ」に放浪で生きた山頭火の人生の厳しさ、それと同時に「清々しさ」「清らかさ」を感じます。自分の人生を正直に生きようとする者の清らかさというのでしょうか。「まっすぐ」に生きることのできない自分との戦いも感じます。
箴言の作者は「常に主を覚えてあなたの道を歩け」と教えています。私たちは人生の道を歩くとき、自分ひとりで歩くことは大変困難です。導き手や、共に歩く人を必要とします。だからこそ「常に主を覚えて」が大切なのです。神様と共に歩くとき、その道はおのずと「まっすぐ」になります。迷わずに歩くためには、主のみ言葉と共に歩くことが必要なのです。
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