マタイ 8:27 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
神学校の時に卒業論文を書きました。ちょうど今頃が追い込みの季節でした。原稿用紙で百枚以上という規定があり、書くことがなく毎日苦しんでいいたことが良い思い出です。私の卒論のテーマは「問い」と「答え」の研究でした。ソクラテスの問答法から、礼拝で説教するなかにこの「問い」と「答え」をいれるというもの。簡単に言えば、問いのないところに答えは与えられないというものです。人生の中に神様のみ言葉の答えが福音となるためには、まずその人に問いがなければ、答えが答えとならないというものでした。
イエス様と弟子たちがガリラヤ湖を舟で渡っていたとき嵐になりました。弟子たちが波にのまれそうになったとき、イエス様は寝ておられたと聖書は記しています。すぐにイエス様をおこし「主よ、助けてください。おぼれそうです」と懇願します。イエス様は、風と湖をお叱りになり嵐が静めました。そのとき様子をみて人々は「驚いた」のです。しかし、イエス様が問題とされたのは「信仰」でした。弟子たちは驚いたときに「問い」を持ったのです。
梅雨明けから猛暑が続いた夏でした。いま思い出しても暑かったと思います。牧師室も夜になっても気温がさがらず、ある夜は38度ありました。寝ていても熱中症になるとニュースで聞き、ビックリしたことでした。そんな時のことです。毎日体温をはかることにしているのですが、表示が変わらないのです。説明書には「L」と出てきたら測定開始となっていますが、それが出ません。すでに36度をさしています。ということは、気温と体温とがほぼ同じということです。朝からちょっとした驚きでした。この驚きから問いがうまれました。なぜ異常気象か?神様の創造された世界を破壊してないか?健康は?と考えさせられました。
聖書の世界でも「驚き」を大切にしています。イエス様の出来事をみて、群衆は「驚く」のです。そして、「この方はどういう方なのか」という問いが生まれるのです。信仰の中で大切なことは問いがうまれることです。神様と自分との関係において問いをもつこと。その問いを自分で受け止めるときに、御言葉という答えが答えとしてあたえられるのです。この世界に起こることに「驚き」、そこから「問い」をもつということを考えてみましょう。