マタイ 28:20 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
これまで「ここにいてくれてありがとう」という言葉を何度か聞きました。私にとってこの言葉は、被災地だけでなく、パレスチナ、タイの津波、インドネシアのときも聞きました。苦しい状況の中にあって、何をしてよいかわからないことがあります。また、苦難や悲劇の中にある人達に何をすればいいのかわからないときもあります。そんなとき「ここにいてくれてありがとう」という言葉は、救援活動をする者にとって慰めです。なにもできないかもしれないが、共にいることはできる。まず共にいることが一番の救援活動なのだと思います。しかし、共にいるということほど難しいものはありません。自分も他者も理解し、受け入れていかねばならないからです。
マタイによる福音書では、イエス様と弟子たちとの別れの場所はガリラヤの山になっています。この山は「山上の説教」が語られた山を思い出させます。そこは、み言葉の福音が語られ、人々が救われ、癒された場所です。この最後の場面で、イエス様が遺された言葉は「弟子の派遣」でした。み言葉の宣教こそが派遣の中心なのです。そして、最後の最後の言葉は「共にいる」というみ言葉でした。これは、弟子たちのすべての働きの中に、イエス様は共にいてくださるということです。
徳山教会で始めた「指圧セミナー」を通して、いままで考えることがなかった「いやし」について多くのことを学びました。セミナーの中で「カルシュウム」と「酢」の大切さを再確認しました。最近この二つを充分とっていますので、心持ち自分に変化がおこってきたような気がします。なんと、イライラしたりカッとくることが少なくなってきたようです。落ちついて祈ることができるようになりました。しかし、いままでの性質をすぐ変えることはできません。ある日曜日の朝6時ごろのことでした。長女が耳が痛いといって私の枕に近づいてきたのです。前日の三時ごろ寝たものですから、その声がうるさくてたまりませんでした。あまりにもしつこく「痛い、痛い」というものですから、ついカッとなって怒鳴りました。「いまどうすることもできない。静かに寝てろ」と。しかし同時に「お父さんならこの痛みを受け取ってくれると、信頼して枕に近づいてきたのではないのかな」と言う声も聞こえてきました。私たちはどれだけ人の痛みと共にできるでしょうか。あの朝、どうして神様に痛みを取りのけてくださいと、娘と祈れなかったのか。心から悔い改めをしたのです。やはりキリストといつも共にいなければ、人の痛みを感じることはできないのではと思います。
イエス様は、天にあげられる時「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました。どんなことが起こっても、どんな状況になろうとも、イエス様は共にいてくださると約束してくださったのです。だからこそ、どこにいてもイエス様に出会うことができます。どんな苦しい状況の中でもイエス様にも出会うのです。そこにおられるイエス様と出会うことで、私たちも癒されていくのです。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>