マタイ 6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
社会的弱者に対する善行は、旧約聖書でもユダヤ教でも積極的に薦められています。しかし、ひとからの称賛を得るという動機が入れば、施しは偽善となります。徹底的に他者のための行為が求められおり、他者のための行為であれば「右の手のすることを左の手は知らない」で十分です。また自分でも施しに気がつかない全く自然な愛の行為となるのです。
毎朝、掃除のおばちゃんに会います。先週は飲み物の自動販売機横のゴミ箱を整理しておられました。これって販売機業者が片付けるのだと思っていました。ところが、おばちゃんが仕分けしていたのです。おばちゃんは自分からやっておられるみたいです。実は、自動販売機は2社あり、ゴミ箱がそれぞれにあります。しかし一つは販売機から遠くはなれているので、1社のほうばかりたまるのです。それで、おばちゃんは時間があるとき仕分けをしていたのです。おばちゃんの仕事ではないし、そのままでもいいのです。しかし、「担当のおにいちゃんが気持よく働くためにね」と言っておられました。誰も知らない行為ですが、おばちゃんの自然な愛の行為に、このビルが保たれていることを感謝しました。
イエス様は「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と言われました。私がやっている。してやっている。気がついているのか。などつい考えてしまいますが、奉仕の業は徹底的に他者のために行われものです。そこには「私が」というものは必要ないのです。神様がきちんと見ていてくださるのですから。
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