マタイ 27:24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
マタイによる福音書からイエス様の裁判の経過をみると、処刑判決をくだした責任は総督ピラトではなく、ユダヤ人にあると強調しています。ピラトは処刑判決を出さないように努力し、苦悩している姿を浮き彫りにしています。また、ピラトの妻を登場させ、夢によってイエス様を「正しい人」と呼び、イエス様が無罪であることを主張しています。ピラトはなんとか釈放しようと務めたとなっています。しかしそれは出来ませんでした。彼は判決を下す責任をもっていたのです。その責任を最後に放棄してしまいます。その立場にある人がもっともしてはならないことをしたのです。「わたしには責任がない」という言葉は、その立場にある人が言ってはいけない言葉でした。
今日のasahiネットニュースに、石巻市の「進まない集団避難」という記事がありました。「もう少し環境のよい場所に移ってほしい、と宮城県が取り組む集団避難が進まない。震災から1カ月が過ぎたいまも約1万5千人が避難生活を送る宮城県石巻市で12日、県外への集団避難がようやく始まった。だが、第1陣は、わずか8人。市は『気に入らなければ1週間で戻れる』とアピールするが、人々の腰は重い」という記事です。なぜ、人々はそこから避難をしないのか、いろんな状況があるでしょうが、最後に次のようにかいてありました。「故郷を離れたがらない人たちの中には、いまだに家族が行方不明の人も多い。石巻市内の避難所にいる自営業鈴木宏朗さん(39)は父親の行方が分からないままだ。『安心できるところで生活したいとは思うけれど、今は離れられない』」と。これに対して、市は避難しない人々に「わたしには責任がない」とは言えないから苦慮しているのだろうと思います。また、最後までその責任を果たそうといている姿をみます。
ピラトは「わたしには責任がない。お前たちの問題だ」といいました。イエス様が神様から与えられた十字架の死という運命には必要な言葉だったのでしょう。しかし、総督ピラトとしての言葉としては決して言ってはいけない言葉でした。最後まで責任をとられる神様に委ねることができなかったのです。