1テサロニケ 2:3 わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。
パウロは、テサロニケでの激しい迫害と苦闘のなかでの宣教について語っています。そのような中で自由に、大胆に福音を語ったというのです。その結果、人々はその福音を受け入れ、パウロの語る福音を「人の言葉としてではなく、神様の言葉として」受け入れくれたことを喜んでいます。宣教の中心が福音に基づいているからこそ、神様の救いの業が広がるのです。
戦国時代に武田信玄という武将がいます。いまでも人気がありますが、彼のエピソードに次のようなものがあります。彼がある戦いに出ていこうとしたとき、一羽の鳩が陣屋の木にとまります。家臣たちは「これは良い知らせだ。戦いに勝つ前兆だ」と喜びます。しかし信玄は鉄砲を持ってこさせて、その鳩を撃ち落としてしまうのです。不安を感じた家臣に向かって「大事な戦いの前に、つまらぬ迷信に左右されるな」と言ったというのです。鳩はよき知らせかもしれないが、次の戦いに出るときに鳩がこなかったら家臣は不安を覚える。鳩がくるかこないかではなく、いまなすべきことをなせということでしょう。
パウロは「迷いや不純な動機」で宣教をしているのではないといいます。宣教の根本には「神様の福音」があり、それが自分を動かしているのだというのです。自分の行いや考え、言動の根本にあるのは何か。何に迷わされているか、動機は何であるか。そのようなことを一度点検してみるのもよいことだと思います。自分がしていることの根拠を問うことで、今の働きは何のためにがわかると思います。事務局の働きはすべて「福音」に基づくものです。