1コリント 15:33 悪いつきあいは、良い習慣を台なしにするのです。
パウロは「死者の復活などない」というコリントの一部の人々に対して激しい反論を展開します。「死者の復活の否定」は、「キリストの復活」という宣教の確信を否定することになるからです。そうなると、パウロの命がけの宣教も虚しいものになり、神様の偽証人とさえみなされると訴えています。「キリストの復活」がないという考えの根底に「悪いつきあい」あり、それが良い習慣を台無しにすると言うのです。
「料亭の下足番」というエッセイを読みました。いまは会社の会長になった方が、その料亭にいったときのことです。一人の下足番といっしょに客を迎えていると、彼は客が乗ってこられた車の運転手に駐車場の駐車スペースを一台一台指示していたそうです。好きなところに停めればいいのに、なぜ指示をするのか。それには理由があり、会食が終わって客が出てくる順番に、車を入れるように指示していたのです。「なぜ帰る順番が分かるのか」と聞くと、下足番の方は「人間というものは変わらないから」というのが答えだったそうです。つまり、約束の時間より前に来る人、時間ちょうどにくる人、遅れてくる人の順番は、会合が終わって、すぐに出てくる人、トイレに行ってから出る人、まだしゃべっている人、というように来るときと同じ順番なのだというのです。人は習慣に支配されており、それが良い習慣であるかどうかを問われるのです。
パウロは「キリストの復活」という宣教の確信をないがしろにするものは、悪い習慣からくる考えを言っているのかもしれません。御言葉をきき、それを受け入れるよい習慣、御言葉とのつきあい方が、ひとを救いの確信へと導いていくのだと思います。