ルカ 15:32 お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。
ルカ福音書の中にある有名な「放蕩息子のたとえ」の最後の部分です。放蕩の限りをつくして悔い改めで帰ってきた弟に、父親が祝宴を開いて迎えたことに兄は不平不満をいいます。怒ってもいます。当然のことのようにみえます。しかし、父親の心からすれば、帰ってきたことを喜ぶことは「あたりまえ」のことでした。しかしこの「あたりまえ」のことが伝わらないのです。
我が家には、相田みつおさんの「トイレ用日めくり」というのがあります。その名前も「ひとりしずか」です。道元禅師によれば、便所は修行者にとって大事な道場のひとつです。道元禅師の代表作の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」という本がありますが、その中に「両辺を汚すことなかれ」という言葉が出て来ます。両辺とはつまり、便器の両側のことです。要するにトイレ、その周りを汚すなということです。あたりまえのことですが、そういうあたりまえのことを、自分の日常生活の中で、具体的にやってゆくことを教えたものです。トイレの中は自分一人の世界です。誰にも見られないトイレで、あたりまえのことを、どう具体的に行っていくか。誰にも見えないところできちんと行うことができるのが、行(ぎょう)ということなのです。これがわかれば、すべてのことにおいて不平不満を言わずにすむのですが。
イエス様は、不平をいった兄にたいする父親の言葉として「あたりまえ」という言葉をつかっておられます。父親の心はどうであるか、何を望んでいるかを考えることができれば、兄もいっしょに喜べたのでしょう。神様がなさることは「あたりまえ」のことが多いものです。それに対して不平不満を言っているのであれ、それは神様の御心を知らないというのと同じことです。