ヨハネ 16:2 あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時がくる。
イエス様は十字架の出来事の前に、弟子たちに「告別説教」をされました。その中には弟子たちの迫害の予告も含まれています。それはイエス様を世が憎んだように、弟子たちも同じように憎まれるというものです。しかし、この迫害の予告は弟子たちを躓かせないためであり、神様のみ心が何であるかを知らせるためです。イエス様の言葉を謙虚にきくならば、その時には 聖霊をいう助け手が与えられると言われています。
私たちは「神様のためにやっている」といいながら、人をつまずかせてはいないでしょうか。そこには、自分こそは神様に奉仕しているという傲慢な考えがあるからです。もし「あなただけが神様に奉仕しているのでしょうか。」とイエス様に問われたとしたら。「そうです」と答えられる人はいるでしょうか。何にもしていないように見えても、実はしっかり神様に奉仕をしています。自然に生えている草木さえも、神様の創造を表わすことによって奉仕をしているのです。
私たちは思い上がってはいけません。常に神様の前に謙虚でありたいものです。すべてのことは神様の業の中にあることです。それをされるのは神様です。私たちは神様の働き手です。自分が神様に奉仕しているのではなく、神様が働き手として奉仕させてくださるのです。「謙虚」ということを待降節に学びたいものです。