1コリント 12:18 神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
今日の箇所で、パウロは「キリストの体としての教会」のことを語っています。私たちの体には手、足、耳などの部分がありその働きには多様性があります。それは、キリストの教会も同じだといいます。多くの部分と働きはあるが、すべて「キリストという一つの体」に属していると教えています。ですから、その働きに無駄なものはなく、すべては部分として素晴らしい祝福をうけているのです。
「ひと言の魅力」というエッセイに、「みんな優等生」という話がありました。「フランスの小学校では、卒業式のときみんな優等生になる。算数、国語はもちろん、かけっこや皆勤の優等生がいると」いう話が紹介してありました。勉強の世界から離れれば、だれでも何か長所はある。それを探して○○優等生すればいいとう話です。そう考えると、たくさんの優等生がうまれます。「笑顔」「返事」「掃除」「ものしり」などなど。大人になって同窓会などで再会すると、○○優等生が話題になり、この問題だったら彼にきけばよいとなるそうです。そのとき、みんなそのクラスで役割を与えられていたことに気がつくそうです。
パウロは、神様が体に部分を置かれたと言います。それは神様の望むままにおかれたと言うのです。ですから不必要な部分はなく、みな素晴らしい部分として成り立っています。キリストの教会も多くの部分からなっていますし、この事務局もその一つの部分です。私たちは、かけがえのない部分としての働きを担っています。神様から与えられた役割を誠実に受けとめて働ききたいと思います。