ルカ 7:47 赦されることの少ない者は、愛することも少ない
イエス様がファリサイ派(イエス様と敵対している人々)に招かれた食事の場での出来事です。一人の罪深い女性が、その席にはいってきて、イエス様の足を涙で濡らし、拭って、香油で整えました。これをみたファリサイ派から「自分に触れている女が誰で、どんな人かわかるはずだ」と非難されます。もちろんイエス様は知っておられ、彼女の示した「愛」を見られたのです。そのときに、なぜこの女性が「愛」をもっているのかを示されたみ言葉のなかに「赦される」という一点を見出すのです。
ある外国の宗教学者が日本の宗教教育の間違いというテーマで話していました。日本では小さい頃から「人に迷惑をかけてはいけない」と教えるが、それが間違いだと。「あなたはそこに生きているだけで、人に迷惑をかけている」と教えるべきだというのです。日本人は「人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」と考えている。それは自己中心的な生き方です。本来は「あなたは人に助けられ、存在を赦されて生かされている」と教えなさいというのです。
私たちは神様から赦されて生かされています。そのことを思うとき、イエス様に、罪深いと言われている女性がしたことの中心を知ることができます。私たちもイエス様の十字架の前では、同じことをして感謝したいと思うからです。今日は事務局内ではお互い赦されて存在していることを覚えてすごしましょう。