マルコ 24:45 人の子は仕えられるためでなく仕えるために
弟子のヤコブとヨハネは、イエス様が神の国で栄光を受けるとき、右と左に座らせてくださいと願います。他の弟子たちは「出し抜かれた」と感じたようです。この願いに他の24人は腹を立てたと記されています。ということは、みな偉くなりたいと考えていたのでしょう。権力がほしかったのかもしれません。イエス様はそのような弟子たちに「偉くなりたいものは、皆に仕えるものとなれ」と言われました。また「すべての人の僕となれ」と。本当の偉さとは「仕える」ことができるかということです。
「母からの教え」というエッセイに、ある企業の管理職の方が次のように書いていました。あるとき、母親が五右衛門風呂の準備をしていた。水道がまだ整備されてないころで、水汲みから沸かすまでは重労働。みかねて母に「手伝ってやろうか」と声をかけた。すると母から「いらん!」と怒られたそうです。手伝ってもらいたいけれど「やろうか」ではしてほしくない。それは大きなお世話だ。お前が「手伝わせてほしい」といったらどれだけうれしいか。と諭してくれたそうです。
「仕えるものになる」ことは心の持ち方が大事です。「やろうか」はどうみても上から目線の言葉です。上からでなく、共に生きるものとしての立場から、上も下もなく共にということから始めたいと思います。事務局作業の中でも「させてほしい」を実現していきましょう。
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