マルコ 247 安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
安息日問答での有名なイエスさまの言葉です。ある安息日にイエスさまと弟子たちは麦畑を通っておられました。弟子たちは歩きながら麦の穂をつんで食べていました。それをみたファリサイ派の人々が、それを労働とみなし、安息日に関する律法違反であるとイエスさまを問い詰めたのです。そのときの言葉が「安息日は、人のために定められた」というものでした。何のための安息日かということです。人が安息日にあわせるのか、安息日は人の安息のためにあるはずだ。律法を守るということが最優先にされ、安息日本来の使命がないがしろにされていることを指摘されたのです。
ある本の中に、「病院の使命について」ということで次のようなたとえがありました。多くの病院が「病院の使命」を玄関かかげています。「この病院は・・・が使命です」というものです。たいていは「この病院は人々の健康を守ることが使命である」と書かれてあるそうです。それを読むと少し不思議に思います。病院は病気になった人が治療をうけるためにくるところで、健康を守るところではないかなと。ところがある病院の緊急治療室には次のような使命が書いてあるそうです。「患者を安心させることが我々の使命である」と。分かりやすく、具体的で、何をなすべきかわかる使命でした。使命は分かりやすく具体的でなければなりません。神様から「自分が生きていくうえでどんな使命を与えられているか」を考えることができました。
イエスさまのみ言葉も「分かりやすく、具体的」です。安息日は人のためにあるのです。神様が安息日をくださった使命は、その日、神様を覚え感謝する日であるということです。神様に生かされていることを感謝し、喜ぶ日が安息日であって、それは人のためにあるのです。さて、それではここで働くことの使命はいったい何でしょうか。それを示すことが上司の役割ですね。そのことをもういちどゆっくり考えます。