エフェソ 240 そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。
パウロは、「キリストにおいて一つとなる」ことを教えます。本日の箇所では、教会という交わりについて、建物のイメージからのべています。教会の交わりには「かなめ石」としてのキリストがおられます。この「キリストにおいて」が繰り返されていることによって、キリストとの結び付きが交わりを支え、成長する基になるというのです。すべてはキリストが中心です。
イソップの寓話に「ロバと親子」の話があります。ある父親が息子をロバに乗せて歩いていました。すると道行く人が「お父さんを歩かせるなんて親不孝な子だ」と言いました。するとあわてて父親がロバに乗り、息子を歩かせます。すると人々は「息子がかわいそうだ」と言う。すると親子でロバに乗ります。すると今度は「ロバがかわいそうだ」と言うのです。するとロバを棒にくくりつけ、親子で担いで歩いていましたという話です。他人の言動に左右されて、自分の意志がはっきりもてないということでしょうか。自分の中に基準を持てないのが私たちです。
パウロは、キリストがすべての「かなめ石」であるといいます。ここに私たちの基準があります。人間の言動に左右されない、確かなみ心がここにあります。聖書を読むことは、すべての基本であると改めて教えられました。