フィリピ 2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
この箇所は有名な「キリスト賛歌」と呼ばれる箇所です。聖書の小見出しには「キリストを模範とせよ」と書かれています。何を模範とするのか、それは「へりくだり」の心をもつということです。イエス様は自分が神の子であり、何をする者であるかを知っておられました。しかし、それに「固執」せず「へりくだって」十字架の死を選ばれたのです。ここにキリスト教の救いがあると言えます。
比叡山の僧侶になった「源信」の逸話です。ある僧が川の水で弁当箱を洗っていたそうです。子どもだった源信は「その水は汚いから、あっちの川の水で洗えばいいのに」と言いました。すると僧は「仏教では、きれいも汚いもないと教えている。こだわらないことだ」と言いました。すると子どもの源信は「それならなぜ弁当箱を洗っているのか。洗わないでもいいんじゃない」と言ったのです。これに僧は答えられなかったという話です。「こだわるな」ということに「こだわっている」ということの問題なのでしょう。しかし、それは大変なことだと思います。人は何かにこだわって、固執して生きているのです。ただ何にこだわっているかを考えることは大切だなと思いました。
イエス様は「固執しようとは思わず」と言われています。すべてに対して自由であるというのです。しかも神様の身分にありながら「へりくだって」おられるというのです。キリストの十字架の出来事と、救いの確信がこの「へりくだり」「固執しようと思わず」という中にあるのです。
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