フィレモン 16 一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
フィレモンへの手紙を読んで、パウロにここまで書かれたら、フィレモンも言われる通りにせずにはいられなかっただろうなと思います。パウロもそれを知っていて書いたのでしょう。
パウロはフィレモンへの手紙の中で、自分のことを「キリスト・イエスの囚人」という言葉を2回書いています。その言葉の重さに心が熱くなりました。どうしてもオネシモのことを頼みたかったからでしょうか。パウロにここまで書かせたオネシモにも、とても興味があります。
パウロはオネシモのことを、「一人の人間としても、信仰者としても」と言います。オネシモが以前置かれていた奴隷という立場からすれば、そのことを乗り越える必要があったのでしょう。信仰者としては兄弟でも、世間的には立場が違うということはよくあります。パウロはオネシモを一人の人間として見てほしいとのべ、オネシモは私たちの「愛する」兄弟と訴えたのでした。
一人の人間としてみる。それはイエス様がされることです。こんなに罪深い私でも、一人の人間としてみて仕えてくださる。それを知った時、わたしもまたパウロのように、すべての人を一人の人間として大切にしていきたいと思います。