先週の日曜日に、愛する兄弟をまた一人天国に送りました。宮崎仁司兄は、2010年7月4日(日)午後1時43分、奥様の澪子姉に見守られて天に召されました。78歳でした。あまりにも突然の出来事でした。入院の知らせをお聞きしたとき「まさか」と思いました。葬儀に集っておられる方々でさえ、天に召されたと聞き「本当に」という驚きしかありませんでした。
もし、棺を揺り動かすことで目をあけていただけるなら、もう一度語りかけたい言葉をみなさんがお持ちだったでしょう。牧師と信徒として共に歩んだ私は、「キリストの僕として、ごくろうさまでした」と声をおかけしました。同時に、澪子姉にも「共に歩まれた信仰生活をご苦労様でした」とお声をかけました。
長きにわたって共に歩まれた人生でしたが、言葉にはできない苦労もあったことでしょう。信仰生活においても、つらい時期もおありになったと思います。神様はお二人を支え、導き、いつも共に歩んでこられました。神様が逃れる場所を用意し、必ず道を示された人生でした。病床で最後まで「家に帰りたい」と言われたそうです。仁司兄にとって、家と教会は一つのこと。帰る神の家があることを知っておられたのです。
「私の青春時代の幕開けは『原爆』で始まったのだ」。教会月報「さえずり」に書かれた被爆証言の始まりの部分です。仁司兄が語られた唯一、たった1回限りの被爆証言です。口数が少ない方でした。その心の中には「悲惨な行き地獄」を経験された兄の、それを心に納めてこられた苦痛と苦悩がありました。その苦悩の中から平和の大切さを教えられた手記です。最後に「73歳の今まで主によって生かされてきた。どのような時にも御言葉にたち、神を信頼し、感謝な人生である」とあります。まさにその通りだったと思います。私とのお別れも病室での祈りのあとの「アーメン」でした。それが最後の言葉でした。