マタイ 17:5 すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
キリスト教は「目の宗教」ではなく、「耳の宗教」だと思うことがあります。『見る』ことより『聞く』ことを聖書は大切にしているのです。旧約聖書では「聞け、イスラエル」と言う言葉が多く使われています。
本日の日課は、主の変容という箇所です。目で見えるかたちで「イエス様が神さまである」ということを示されたのです。「イエスの姿が目の前で変り、太陽のように輝き、服は光りのように白くなった。」と書いてあります。弟子たちは自分の目で、イエス様がどんな方であるかを示されているのです。
ところが、その先の箇所を注意深く読んでみます。ペトロの告白の次にある言葉の内容が不思議です。そこには、父なる神が声が聞こえてきたとあります。この神様の声はマタイによる福音書では、イエス様の洗礼の時と、ここにしかありません。それほど重要な言葉です。その言葉は「これはわたしの愛する子。・・・これに聞け」なのです。これを見なさいではありません。変容という出来事を見なさいより、イエス様に聞けというのです。
御言葉は見るものでなく聞くものです。そして聞くことはイエス様に集中することでもあります。信仰は聞くことから始まるとパウロも教えています。