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広島へ帰ると時間を見つけて温泉に遊びに行きます。今回は六日市「ゆらら」にいきました。ここの露天風呂のことは前にも書きましたが、温泉のみというのが大好きです。余計な音がなにもなく。静かな露天ぶろです。
無料休憩室で休んでいますと、ススキをみつけました。秋ですね~名物「錦華饅頭」を買おうと思ったら、なんと新製品がでていました。「麦ころがし饅頭」(栗入り)。なんとも素朴な饅頭で、美味しかったです。
帰りがけには、これまた名物「山賊」によって、贅沢な一日を過ごしました。
ヨハネ 7:52 あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。
イエス様に敵対するファリサイ派の人々は、イエス様を逮捕するように下役たちを遣いにだしました。群衆がイエス様の業と教えに感動し、イエス様を信じる者が多数でてきたからです。その間に何回もイエス様のことで議論が繰り返されています。そしていつも議論は最初に戻るのです。「メシア(救い主)はガリラヤからでるだろうか」と。ファリサイ派の人々はこの繰り返しに気がつきませんでした。 会議の目的は、創造的な結論を導くことです。しかし、それをひっくり返してしまう参加者をよくみかけます。組織改革をするという会議にでたことがあります。約3時間あまりを議論についやしたあとのことでした。これで結論にしようと司会者がまとめようしたとき、ある参加者が手をあげました。そして次のように発言したのです。「そもそも議論の前提について疑問があるのですが・・・」と。つまり組織改革をしなければならないかが疑問だと。このままじゃだめなのかというのです。これでいままで積み上げてきた議論は振り出しに戻ってしまいました。これは会議ルールの明らかな違反です。採決の段階で議論を振り出しに戻すようなことはしてはならないのです。 「ガリラヤからは預言者はでないことがわかる」。それではイエス様の行われた業、教えはいったい何かということになります。新しいことが始まっていても、古い考えにとらわれていると真実を見失うこともあります。信仰も成長していきます。振り出しに戻らずたえず新しく創造されていく信仰を考えてみたいものです。 <音声朝礼は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
AVACOだよりのトップ記事に、インタビューをのせていただきました。また「神さまのおべんとう箱」の宣伝も作っていただきました。さてどのくらい売れているのでしょうか・・・
祈りつつ、祈りつつ、神さまのおべんとう箱で満たされますように!
マタイ 11:19 人の子が来て、飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。
洗礼者ヨハネは、捕えられた牢屋の中でイエス様の業と働きを聞きました。そこでイエス様のもとに弟子を遣わして「来るべき方はあなたでしょうか」と尋ねています。人々の言葉や噂に惑わされず、自分できちんと確かめようとしたのです。なぜなら群衆は、イエス様のことも洗礼者ヨハネことも人々の勝手な噂に惑わされていたからです。洗礼者ヨハネは悪霊に取りつかれた者、イエス様は大食漢で大酒のみと言われていたようです。 CMプランナーの佐藤氏が次のようなことを書いていました。「たとえば店頭でインスタントラーメン売り場か、ビール売り場に行ってみてください。パッと見て、もうすでに大体買うラーメン、買うビールはすでに決まっています。ラーメンやビールだと選択にそんな時間をかけていません。つまり、みんなが手に取る商品は、ちょっと光り輝いているように見えます。すでに『見えない衣』をきているのです。その『見えない衣』をつくることがCMの役割なのです」。手に取り、味わう前にすでに商品は選ばれている。衝撃的な事実なのですが、教会もまたそのような「見えない衣」を着せられているのかもしれません。カトリック教会へ行かれる新来会者が多いのもうなずけます。ルーテル教会はどうでしょうか。どのような「みえない衣」を着せられているでしょうか。 イエス様は「知恵の正しさは、その働きによって証明される」と言われました。「みえない衣」ではなく、「みえる衣」に従って判断しなさいということでしょう。洗礼者ヨハネが自分で確かめたように、人や宣伝に惑わされずに、しっかりイエス様のみ言葉によって確認していくことだと言えます。私達の人生は、み言葉という生きる基準をもっているのです。 <音声朝礼は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
使徒言行 5:29 人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。
大祭司とサドカイ派の人々は、ねたみに燃えて使徒たちを逮捕し投獄します。また、説教禁止の命令をだしています。群衆が使徒たちの教えに感動し、イエス様を受け入れていたからです。その数は大きくなるばかりでした。投獄された弟子たちは、天使によって牢獄から連れ出され、もっと大胆にイエス様の名によって説教を始めたのです。 あるブログで、礼拝所及び墳墓に関する罪について読みました。この罪は刑法に規定された犯罪類型の一つです。国民の宗教生活の保護や国民の健全な宗教的敬虔感情の保護が挙げられています。信教の自由などの個人的法益や司法捜査の適正など、国家的法益も同時に保護する場合もあります。この法律の中に、礼拝所不敬罪(第188条第1項)、説教等妨害罪(第188条第2項があり、神祠、仏堂、墓所その他の礼拝所に対し、公然と不敬な行為をした者は、6ヶ月以下の懲役若しくは禁錮又は10万円以下の罰金に処せられます。また、説教、礼拝又は葬式を妨害した者は、1年以下の懲役若しくは禁錮又は10万円以下の罰金に処せられます。説教を妨害した場合の罪について初めて知り、びっくりしました。 ペトロは、イエス様の名によって説教してはならないと命じられたとき、「人間に従うよりも、神に従う」と言いました。福音の説教がなされる時、誰もそれに対して禁止の命令をだすことはできません。彼らは神様に従って語っているからです。神様に守られて語られる説教を、だれも止めることはできないのです。神様がなされる業だからです。 <音声朝礼は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
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