マルコ 12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。
イエス様の時代には、神殿にラッパの形をした献金箱がおかれていました。人々はこのラッパに向かって多くの献金を投げ入れていたのでしょう。その中にわずかな献金を入れたやもめがいました。イエス様は、やもめを無視なさいませんでした。金額の大小ではなく、やもめの信仰に目をとめられています。投げ入れたか、入れたかは大きな違いです。イエス様は賽銭箱の向かいに座っておられ目をとめられたのです。
いじめが原因で自殺した小学生のニュースがありました。いつ聞いても胸がつまります。同じ年頃の女の子をもつ親として痛みを覚えます。今回も学校の対応、教育委員会の在り方に疑問をもちました。PTA会長をやっていた時と同じ疑問です。なぜ向かい合うことができないのかなと。ある時、市PTA連絡協議会で中学校のPTA会長さんと席が同じになりました。その方が、なぜPTA会長をしているかを話してくださったのです。彼は「自分の娘は中2で妊娠し子どもを生みました。そこから地獄の日々を過ごしました。学校も先生も教育委員会も娘を助けてくれなかった。でも親である私はそこで娘と真剣に向かい合ったのです。その時、私一人が最後まで向かい合う決心をしたのです」と教えてくれました。
イエス様は、賽銭箱の向かいに座っておられました。すべての人と向かい合っておられたのです。そこで1人の貧しいやもめと出会われました。イエス様が彼女の中に何をみたのか。それはすべてを神様に捧げる信仰だったのです。向かい合ってはじめてわかることがあります。
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