通勤生活にも慣れてきました。あさのリズムができてきたので、時間割をつくって毎朝をすごしています。まあ、何時に起きて、次にこれをしてというものです。現場にいたときには時間を気にすることなく過ごしていたので、決められた時間の中で働くにはリズムだなと思います。
そんな中、毎朝の聖書は通勤電車の中で読むことになりました。40分の通勤時間がもってこいなのです。電車にゆられているだけでなく、聖書を読む時間を与えられたと考えれば楽しい時間に変えられます。なにせ朝6時の電車の中は、どんよりとした雰囲気です。「さあこれから働きにいくぞ!」という感じはなく、「今日も仕事かあ~」というものを感じます。どんよりと言った方がいいでしょうか。元気はつらつからは遠いものがあります。そのような中で聖書を読むと内なるエネルギーに満たされていくように感じるのです。永田町で降りるころには「さあ事務局へ」という気持ちになります。
ところが、ちょっと困ったこともあります。いつもは誰も何もいわず電車に揺られているのですが、たまに朝からハイテンションで話している人がいます。このどんよりとした雰囲気の中で、話声が聞こえると集中できなくなってしまいます。これは自分の問題なのですが、ついつい聞こえてくる話が耳に入り聞いてはいけないと思いつつそっちに気を取られるのです。聖書を読みながら聞こえてくる話をきいているので、結局どこを読んだのかわからなくなります。「サタンが御言葉をとりあげていく」という祈りを聞いたことがあります。まさにそのような状況かなと思います。
み言葉に集中するということを聞きます。これはとっても難しいものです。聖書を読んでいながら他のことを考えていることが多いからです。この誘惑を振り切るにはどうすればいいのか。集中、集中と心にいいながら聖書を読んでいると、そのことにまたとらわれる。それでも通勤電車の中での聖書通読は楽しい時間なのです。朝からいただく命の糧なのですから。