マタイ 27:4 ユダは・・「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
イスカリオテのユダは、自分の裏切りによってイエス様に有罪の判決が下りたことを後悔します。その後、祭司長や長老たちにイエス様を売り渡した銀貨30枚を返そうとしました。ところがそれが受け付けられず、その銀貨を神殿に投げ捨てて、首をつって死んでしまいます。この出来事はペトロの3回の「イエス様を知らない」という話と続きの出来事です。ここにはそれぞれにテーマがあり、「悔い改め」と「後悔」です。前者は「外に出て激しく泣いた」とあり、後者は「首をつって死んだ」とあります。この違いは何でしょうか。恐ろしい現実の前に立たされたときに私たちに求められていることは何かと思います。
今日で、東日本大震災から1ヶ月がたちます。ルーテル教会からは小泉嗣牧師が仙台教会に派遣されました。今日から、ルーテルボランティア支援センター「となりびと」が、その働きを始めます。昨日は先週準備作業を終えたレポートが送られてきました。小泉牧師は次のように書いてきました。「仙台に来てはじめてのドロかき。一月たった手付かずの家屋はドロ自体が匂いを発し、マスク必須の作業。津波到来前、そのままの家財道具、衣類、その他もろもろが、ドロにまみれ、その家庭の歴史自体が消滅してしまったような気持ちになる。そして、そこには家族の写真があり、卒業アルバムがあり、家人の趣味であるプラモデル、釣りの道具があり…わが子と同じくらいの子どもの写真を見つけたときは何ともいえない気分…」。救援活動に係る多くの人々は、それぞれに重いものを突きつけられます。その現実の前に立って活動していかねばなりません。それを神様はすべて受け止めておられると思います。
ペトロは3回知らないといったことに自分の弱さを痛感し、「外にでて激しく泣いた」とあります。ユダは、自分で犯した罪の決着をつけようとします。しかし自分の力で解決をし責任をとろうとすることは、結局自分を救うことにはなりませんでした。ユダは後悔をしたのであって、悔い改めまで導かれなかったのです。「それはお前の問題だ」と言われただけでした。いま大震災を前にして、その現実の問題に対して本当に求められているものはなにか。今日は悔い改めというテーマで考えてみたいと思います。
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