マルコ9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。
イエス様がタボル山の上で変容されたとき、ペトロ、ヤコブ、ヨハネはそこにいました。目の前でイエス様が真っ白に輝き変容されたとき、ペトロはモーセとエリヤと話しておられるところに口をはさんでいます。そして意味不明の事を話したのです。「どう言えばよいのか、分からなかった」からです。神様の出来事の中で畏れを体験したのだと思います。
阪神淡路大震災から16年がたちました。まだ人々の心に深く残るこの災害のことを思うと、月日の早さを感じているだけではいけないように思えます。16年前の2月は西宮にいました。自分の教会を留守するのを許していただき、2ケ月ほど現地で働かせていただきました。いまでも、あの時のことを思い出すことがあります。それは地が揺り動くという畏れでした。そして今、宮城県にいます。2つの震災救援をしながら感じていることは「恐れ」ではなく「畏れ」です。人間の小ささを感じながら、神様の存在を感じた「畏れ」がそこにあります。神様の前に立つときに、私達はどうすればいいのかわからないのです。ただただ畏れしかないのです。
ペトロもそうだったのでしょう。しかし、人間の畏れの中にあっても、神様の御心は進められていくのだといえます。私たちは畏れます。それでも神様の御心は変わらないのです。