ヨハネ 8:15 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。
イエス様は、ファリサイ派の人々にむけて「わたしは世の光である」と言われました。この言葉はヨハネ福音書では特徴的な言葉です。「エゴー・エイミ(わたしは~である)」という言葉はヨハネ福音書では何回も繰り返されています。ところがファリサイ派の人々はそれを受け入れませんでした。むしろその言葉のゆえにイエス様を裁いていたのかもしれません。
「東日本大震災は神様の裁きです」。このような言葉を聞くことがあります。何人から信徒の方から電話をいただきました。「うちの牧師先生が説教で『裁き』と言われたのですが」「先生も『神様の裁き』だとお考えですか」と。何か震災が起きるたびに同じような質問をうけます。これが「神様の裁き」かどうか、それは神様しかわからないことです。しかし、児童74名、先生9名が津波で流された大川小学校の前に立ったとき、それは違うと確信しました。説教壇からそのように語る牧師がこの小学校の前で同じことを語ることができるでしょうか。それが裁きならば、なぜ東北の地のみが裁かれなければならないのか。同じ信仰に立つ同労者の言葉に深い悲しみを覚えています。裁きを語るより、イエス様と共に被災者に寄り添うことが御心だと思います。
イエス様は「だれをも裁かない」と言われました。裁くことがイエス様の働きではないからです。イエス様を知ることが神様を知ることになります。そのイエス様が裁かないと言われています。津波は神様の裁きでしょうか。被災地に立たない人の言葉としか聞こえてきません。