マタイ 25:40 わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。
教会暦最終主日に読まれた聖句です。最終主日には神様が「すべての民族を裁く」たとえ話が用いられます。終末において祝福を受けるか、滅びの宣告をされるかが決まります。イエス様の教えでは、その分かれ目は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」を受け入れ、仕えることができたかどうかです。その小さい者に何をするかに関しては、あたりまえのことをあたりまえにできたかを問われています。
今年のプロ野球日本シリーズはソフトバンクが優勝しました。中日ドラゴンズの落合監督のインタビューをとても興味深く聞きました。「落合野球は面白くない」という言葉をよく聞きました。派手さがないとか。常識の采配しかしないとか。しかし、だからこそあれだけのリーグ優勝、日本一にもなれたのだと思います。観戦するほうは派手な采配とダイナミックなプレーを観たいものです。しかし、「勝つ」という目標と「観せる」という目標は違います。落合ドラゴンズは「勝つ」という目標をはっきり見据えたとき、あたりまえのことをあたりまえにすることで戦ってこられたのでしょう。これは大変なことだと思いますし、誰でもができることではありません。自分の決めた道を淡々と進めていく精神力を持っておられるのだと思います。
イエス様は「最も小さい者のひとりにした」のは「わたしにした」と言われました。私たちが小さき者とされている人々仕えるとき、それはすべてイエス様にしたこととして受け取ってくださるのです。私たちが意識していないことでもすべてイエス様が受け取ってくださいます。み言葉の信仰によって「あたりまえのことをあたりまえにする」。それを淡々と続けていくことだと思います。それが神様の国に迎えられる救いへとつながっているのです。
(23~25日まで中国地方で震災救援報告のため出張します。音声朝礼はお休みとなります)