新しい年の初めは「ミッション(使命)」について考えています。自分が牧師として働くことの中心にある「ミッション(使命)」は何かを点検しています。今年の5月に行われる全国総会にて本部事務局で4年の働きが終わります。これまでは1期2年の2期までという事でしたが、現在は3期までとなっています。しかし、自分の中では一区切りという感じがしています。事務局長としての働きも大切な牧師の働きですが、自分のミッションから考えると、牧師として現場に立ちたい思いが強くなってきています。
ある本で、フランクルという人が次のように言っています。「人生におけるミッション(使命)というものは、つくるものではなく発見するものである。すべての人は人生における独自のミッションあるいは仕事をもっている」と。牧師としての自分が発見したミッションとは何か。「一人でも多くの人に神様のみ言葉をわかりやすく伝えること」が、25年前に発見したミッションでした。それはいまでもかわっていません。そのことを実現するために、エッセイ集、こども説教集を出版、朝礼を準備し、絵本制作などもしてきました。ミッションが明確であったためだと思います。
ところが、事務局勤務となって少しズレを感じるようになりました。このズレは一体何かと考える日々が続きました。その時、東日本大震災救援派遣として現場に立つことがゆるされたのです。このときズレが何であるか理解できました。それは「現場」と「机」との違いということでした。自分のミッションを実行していく上で適切な場所はどこであるかという問いがおこったのです。
新しい年はミッションの再確認し、使徒言行20章24節を発見しました。パウロは「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」と言っています。あらためて「神の恵みの福音を力強く証する」というミッションの発見が、今後の牧師人生の基礎となりました。