ヘブル 5:2 大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。
ヘブル書の著者は、大祭司も人間であるので罪にいたる弱さをを身に負っていると言います。大祭司としてのイエス様も同じように弱さを身に負われています。しかし、イエス様が負われた弱さとは普通の大祭司が負うものと同じではなく「思いやること」ができる弱さでした。この「思いやる」という言葉は旧新約聖書ではここに1回のみしかありません。どうしてよいかわからない(それが無知で迷っていること)痛み苦しみ、そこから来る弱さを思いやるためにそれを身に負っておられるのです。
震災後すぐの被災地では合同葬儀が毎日おこなわれていました。ある時、そこに一人の小学生女子のご遺体が運ばれてきました。ご遺族もおられたのですぐに葬儀が始まろうとしていました。するとお母さんが「もう少し待って下さい」とお坊さんに頼まれたそうです。「もうすぐお友達の○○ちゃんの遺体も届くので、一緒に送らせてください」と泣きながらお願いされたのです。友達と一緒に神様のもとに送りたい。これは深い「思いやり」の姿だと教えられました。自分たちのことで精一杯の中で、なお人を思うことができる。悲しみを共有した者だけがもてる優しさなのです。
ヘブル書の著者は「自分自身も弱さを身にまとっているので」という言葉を告げています。だからこそ、どうしてよいかわからない悲しみの中にある人を「思いやる」ことができる。イエス様の十字架は痛み苦しみを担うためのものでした。死という絶望を身にまとうことでもあります。だからこそ私たちの悲しみに寄り添っておられるのです。
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