ヨハネ 12:24 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
イエス様にもとに、弟子のフィリポとアンデレの取次でギリシャ人がやってきました。おそらく異邦人であるギリシャ人は、イエス様の弟子になろうとうやってきのでしょう。異邦人がそこにきたということは、特別なことを意味しています。それに対してイエス様は「人の子が栄光を受ける時がきた」と宣言されました。救いの業の完成をみておられます。そこで「一粒の麦のたとえ」を話されました。イエス様の十字架の死が、全ての人に命を与えることが鮮明に語られています。
幼稚園のチャプレンをしていたときのことです。「一粒の麦のたとえ」を話す時に、ひまわりの種を一人に1個あげました。みな宝物にするといって喜んでいました。1人の子どもが、ちょうどお父さんが交通事故で天にめされたばかりでした。その子は、お父さんのお墓にそれを植えたそうです。毎日のようにお墓に行き、お世話をしていました。夏休みが終わった時「お父さんがこんなにいっぱいになった」とひまわりの種を見せてくれました。彼女はひまわりにお父さんを重ねてみていたのでしょう。「お父さんがいっぱい」という言葉のなかに復活をみる思いでした。
イエス様は「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われました。たった1度のイエス様の十字架の死によって、多くの人の罪が赦されました。しかし、イエス様の命はそれで終わりではありませんでした。十字架をしっかり見つめた者は、復活の命をも知ることがゆるされています。
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