イザヤ 53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病をしっている。
イザヤ書の中にある「苦難の僕」として有名な箇所です。イエス様の十字架の苦難を預言したものです。まさに十字架の出来事がここにあるといえます。「軽蔑され見捨てられる」イエス様の姿に心が痛くなります。この痛み苦しみは何のためにあるのだろう。そんなことを思います。
昨日、本の整理をしていましたら、幸田文全集がでてきました。私は、幸田露伴氏の娘である彼女の文章が大好きです。彼女が書く日本語が美しさにあこがれてしまいます。文章の中にある気品にいつも圧倒されています。そこでつい本を読み始めました。その中の随筆に「幸福なうち」という文章があります。いろんな方から「お宅は幸福な家庭でいいですね」と言われ、本当にそうかと考えたというものです。はたして幸福な家庭とはどんなものだろうと書いておられます。彼女は「幸不幸というのは対照的なものではなくて、不幸を包含しての幸福であり、同時に不幸は幸福をはらんでいるというほうがいいようである」と書いています。また「幸福な家庭は未来に描くものではなくて、いろんな不幸をしょってる現在のなかに発見するものだ。けれども、偶然に生じるのではなくて、意をつくして育てるものだ。幸福でいっぱいになっているうちなどあるものではない」と締めくくられていました。とても共感しました。平安の中に痛みあり、痛みの中に平安があるという。その発見を大切にしたいとおもいます。
イザヤは預言しています。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病をしっている」。私たちは、痛みと共に生きていかねばなりません。それでも、痛みを軽くすることはできます。痛みを共に負ってくださる存在に気がつくことです。あなたの痛みを共に負っている方がおられる。その方の存在に触れたとき、痛みは軽くなると思います。イエス様が十字架で示してくださったのは、この痛みを共に負うということだったといえます。十字架こそ痛みの中に平安があるできごとです。それが私たちを救いに導くのです。
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