マタイ 12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。
信仰の継承という言葉をよく聞きます。牧師の家庭では信仰の継承ほど難しいものはりません。牧師の表裏をよく見ているからです。ある牧師の息子さんが「自分は牧師である父から信仰を継承されたことは一度もない」と話していました。彼は「継承ではなく、共有していると思う」と。同じ信仰が与えられて共に生きているのだというのです。確かにそうだなと思います。
イエス様のもとにある人がやってきて、家族が何か話があるそうだと伝えます。どんな話があったかは書いてありません。はじめはイエス様の行動に戸惑いがあり、やめさせようとしていました。それが評判になると、家族の特権をいかして何かを願いに来たのかもしれません。その人に向かってイエス様は、母マリアや実際に血がつながった兄弟だけが家族なのではなく、神様を信じ、神様の考えや御心に従う人々が本当の家族といわれました。わたしたちは神様を信じ、御心に生きていくことによって神様の家族として祝福してくださるのです。
ある青年がいました。10歳のときにお父さんを天国におくり、悲しくて、淋しくてしかたありませんでした。「神様どうして?僕には家族がいない」と、祈りの中で何回も神様に聞きましたが答えがありませんでした。あるとき自分の姿を鏡に写してみました。そのとき、写真で見た父の面影を自分の中にみつけることができました。彼は「父は私の中に生きている。父の命はここで生きている」と思ったそうです。彼は「父から2つの命をいただいた。1つはこの世に誕生したときの命、そしてもう1つは父が天国に召されたとき。父はこの世で与えられた命を私の中に残してくれたのだ」と。
私たちは先に天に召された方々の命の証を引き継いでいます。それは素晴らしい想い出であったり、言葉であったりします。すべて、その人の命です。神様の御心によって与えられたものです。その命をいっぱいいただいて共有しています。イエス様は「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言われました。神様の御心を行うということは、引き継がれてきた神様の愛を共有することだといえます。
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