1テモテ 5:2 年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。
ある家庭を訪問してきました。90歳を超えたお母さんを自宅でお世話されていました。その中で笑い話のように補聴器の話をされました。お母さんが補聴器をつけないと言われるのです。お母さんは面倒くさいし特に不便を感じないと言われます。すると娘さんが「それは自分勝手でしょう。補聴器をつけるのは自分のためじゃないのよ。私たちの話を聞いてほしいからよ」と。するとおばあちゃんは「そうねえ~自分勝手だったわ」と笑っておられました。親子だからできる会話だなと思いました。母親だからできる関係があると思いました。
パウロは弟子のテモテとテトスに手紙を書いています。これを牧会書簡といいます。パウロはこの手紙のなかで、テモテに教会の人々に対してどのように接するべきかをのべています。簡単にいえば自分の家族のように接しなさいということです。テモテはまだ若い弟子でした。しかし、彼は祖母、母から受けついだ信仰を確かなものとし、パウロの弟子となったのです。「母親と思い」というパウロの勧めは、信仰の中にあってという関係の中で語られています。
痴呆になった親の介護をとおして感じたことを詩にまとめた本があります。そのなかで介護をしていて一番悲しいことは何かが書かれていました。親のオムツを毎日変える事でも、面倒をみることでもない。それは「自分の母が母でなくなること」とありました。母はいつまでも母であってほしい。私達にとって母の存在は、心の中の支えです。いままで共に生きてきた母がそこにいるのに、子の存在を認識できず親子の関係でなくなる。こんにつらいことはないだろうなと思います。母はいつまでも母であってほしい。しかし、それをも受け止めていかねばならないのです。
パウロはテモテに対して「年老いた婦人は母親と思い」と言っています。たとえ相手がどんな存在であっても「母親と思う」ことの大切さをのべています。母親であったということではなく、母親であることを思うことは、その人のすべてを受け入れて思うことです。そのような関係において神様の祝福があるのが教会の交わりです。
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