フィリピ 4:13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
幼稚園のお誕生会に招かれてお話をしてきました。久しぶりに子供たちの前に立つと、とても元気がいただけました。私も8月に誕生日を迎えましたので、一緒にお祝いしていただけました。誕生日を迎えた子供たちは園長先生から一人一人に誕生日ノートを渡されました。そこに将来何になりたいかが書かれてあり、男の子の多くはスーパーヒーロー、仮面ライダー?といったものが多く微笑ましい限りでした。やはり「強くなりたい」というのが一番の思いでしょうか。そのうちに本当の強さを学んでいくのでしょうが。
パウロはフィリピの教会からの贈り物に対して「感謝の手紙」を書いています。その中でフィリピの人々の心遣いに感謝しています。この心遣いとはパウロが遭っている艱難、苦しさを共にするというフィリピの人々の意思のことです。それを表してくれた喜びを語っています。パウロは「自分の置かれた境遇に満足する」ことを習い覚えたと言っています。貧乏でも、豊かでもどちらでも生きていける。空腹でも満腹でもありのままに生きていけるというのです。なぜなら「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」という通りです。自分のすべては主に支えられているという確信を持っているのです。
ある禅宗のお坊さんの手記を読みました。お布施稼ぎが本当の生き方ではないと悟ったお坊さんがおりました。寺を飛び出したものの、物乞いをするわけにもいかず、さして普通の商売をするほどの俗物でもないお坊さんでした。お坊さんは考えました。誰かにわらじの作り方を聞いて、毎日わらじを作っては人のよく通るところに置くことにしました。そして「このわらじお代は心持ち次第」と書いて、竹筒をそこに置いたのです。こうして夕方になると竹筒のお金をとり生活していました。あるとき、悪たれ小僧が竹筒の中のお金をとり、そのあとに馬糞をいっぱいにつめておいたのです。そうとはしらずこのお坊さんはいつものように夕方お金を取りに行きました。しかし、開けてみるとお金ではなく馬糞がいっぱいだったのです。お坊さんはどうしたのでしょうか。いたずらとは考えず、「我が食尽きたり」と観念し、何も食べないで座禅したまま成仏したというのです。外からの何ものにも惑わされない生き方、あるがままでしょうか。
パウロは「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と言いました。パウロがあるがままに生きていけるのは、そこに復活の主の力があるからです。彼を支え、守り、導いておられるイエス様のみ言葉と福音があるからです。その恵みに生かされるとき、「わたしにはすべてが可能」となるのでしょう。
<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>