言葉は不思議です。たった1字でまったく違った意味になります。あるとき教会総会資料に「悔改めて福音を信じなさい」と書きました。これがミスタッチで「さ」が抜けていました。すると「悔改めて福音を信じない」と書いてありました。まったく逆の意味になっていたのです。しかし、ある青年が「先生のことだから意味があると思っていました。私たちは悔改めても福音を信じてないことが問題ですよね」と。やっぱり言葉は生きていますね。
さて、夏休みに次女が熊本にやってきました。1週間でも熊本で生活するのは初めてのことでした。「暑いね」「温泉がどこにでもあるね」「美味しいものたくさん」「阿蘇ってすごいね」と感想を言っていました。その一つに「熊本のごみ袋は面白いことが書いてある」というのです。熊本の袋には「もやすごみ」って書いてあると。はじめはそんなことはないだろうと思いました。たしかに「もやすごみ」とあります。これって他府県では「もえるごみ」と書かれてあります。「もやす」と「もえる」ではちょっと違ってくるなと思いました。
「もやす」というのは自分で判断しなければならないということです。環境を考え、保全するために自分で考えなさいということでしょうか。「もえる」というにははじめから指定がしてありそれに従ってだしなさいということです。まあ、そこまで考えているか?ちょっと市に聞いてみたくなりました。
そんなことを考えながら、「祈り」と「祈る」も違うと気がつきました。いま大江教会にとって必要なのは「祈り」です。実はそうではなくて「祈る」ことです。私たちの教会は千人礼拝を目指している教会ですから、具体的に「祈る」教会、「祈る」信徒でありたいのです。牧師は毎日納骨堂で具体的に祈っています。教会堂整備・牧師館建築、なによりも千人礼拝の実現。召天者のかたのほほえみを感じています。