宇土教会の信徒のおばあちゃんを訪問しました。92歳を迎えられました。昨年までは歩いて教会の礼拝に出席されていたそうです。いまは娘さんが自宅でお世話されていました。ゆっくりお話しをさせていただきました。その中で補聴器ことで微笑ましい会話がありました。
その会話は、おばあちゃんが補聴器をつけないという話です。おばあちゃんからすれば、面倒くさいし、特に不便を感じないから補聴器はつけないと言われます。すると娘さんが「それは自分勝手でしょう。補聴器をつけるのは自分のためじゃないのよ。私たちの話を聞いてほしいからよ」と言われました。おばあちゃんは「そうねえ~自分勝手だったわ。自分が問題を感じないからと思って」と笑っておられました。親子だからできる会話だなと思いました。母親だからできる関係があると思いました。
痴呆になった親の介護をとおして感じたことを詩にまとめた本があります。そのなかで介護をしていて一番悲しいことは何かが書かれていました。親のオムツを毎日変える事でも、面倒をみることでもない。それは「自分の母が母でなくなること」とありました。母はいつまでも母であってほしい。私達にとって母の存在は、心の中の支えです。いままで共に生きてきた母がそこにいるのに、子の存在を認識できず親子の関係でなくなる。こんにつらいことはないだろうなと思います。母はいつまでも母であってほしい。しかし、それをも受け止めていかねばならないのです。
パウロは若いテモテに対して「年老いた婦人は母親と思い」と教えています。たとえ相手がどんな存在であっても「母親と思う」ことの大切さをのべています。母親であったということではなく、母親であることを思うことは、その人のすべてを受け入れて大切にすることです。そのような関係があり、神様の祝福があるのが教会の交わりです。教会神様の家族ですから。大家族っていうのがいいですよね。
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