教会を開くことは、「教会の扉を開く」ことから始まると思います。扉だけでなく、窓を全開にして風を通すことにしています。夏には夏の風が礼拝堂に入ってきます。いまは秋の風になりました。とにかくさわやかな中で毎朝の祈りができています。
教会の扉を開けていると、教会の前を通る方々が「何かかわったぞ」と思っておられるようです。それでも礼拝堂まで入ってくるには大きな勇気がいります。教会の敷居は本当に高いようです。「わたしは教会にいけるような清い人間じゃないから」と言われます。それくらい敷居がたかいのですね。
先週のことでした。人感センサーが「ピンポ~ン」となりましたので急いで一階に下りていきました。すると一人の女性が深刻な顔をして玄関におられました。何か教会に相談があるのか、牧師と話がされたいのか、とにかく深刻な顔でモジモジしておられるように見えました。そこで、「牧師に何かお話がありますか?」と尋ねました。「とくに牧師さんにはお話はありません。すみませんトイレを貸して下さいますか」と。その言葉にすべてがわかりました。それは深刻でしょうね。すぐにご案内しました。
笑い話ですが、とても嬉しく思いました。大江教会の敷居が少しずつでも低くなってきているのかもしれません。通りすがりにトイレを借りることができる。それは安心してそこに入れるということだと思ったのです。教会の敷居は教会がつくったものではありません。教会に行ったことがない人たちのイメージからつくられているものです。そのイメージを変えていただくことから始めなければ、日本の宣教は始まらないのです。
毎朝、教会の周りをぐるりと回ります。ここは安心して入れる教会になっているだろうか。祈りつつ一回りするのです。看板は良く見える。お花も咲いている。猫が招いている。扉があいている。大江教会がここで宣教を続けていくには、教会の扉をあけておくこと。ここに大きな意味と、神様の働きをみています。