マタイ 5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
子ども説教の中で、先入観と見方の違いということを話しました。私たちは初めに与えられた情報を基本として物事を見てしまいます。子ども説教では、若い女性にも、お年寄りにも見える絵を見せました。その時、最初に別の若い女性の絵を見ておくと、その絵は若い女性にしか見えなくなります。はたして自分が見ているものは本当の姿なのか、人によって見方は違うということを話しました。大切なことは自分の見方の基本は何かということです。
イエス様の山上の説教の中にある言葉です。マタイによる福音書には「~~の人々は幸いである」という8つの幸いが語られます。そのあとに本日のみ言葉があります。隠れた9つ目の幸いです。しかし、どうしてこれが幸いかと思います。「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」とあります。それは幸いでなかく不幸なことです。ところが見方をかえれば幸いとなります。その見方とは、イエス様のためにという見方です。イエス様にとって迫害は神様の働きの中にあり、その働きは神様と共にあるからこそそれがおこると言われます。
リフレーミングという心理学用語があります。枠組みを変えてみるということです。一番簡単なたとえは、コップに水が半分しか入ってないとします。ある人は「半分しかない」と考え、ある人は「半分もある」と考える。どちらも自分のフレームでしかものを見ていないということです。最近、病床にある方、死に直面されている方がおられます。「もう終わりだ」「もうだめだ」という言葉をききます。しかし、イエス様は聖書の中でそのような人々に「だめだ」と言われたでしょうか。むしろある人には寄り添い、ある人には神様の国の希望を語られ、十字架上の人には「今日パラダイスにいる」と告げられました。どんなことがあっても、イエス様のみ言葉を中心にすれば、希望がみえてくるのです。イエス様のみ言葉のフレームでみることです。
イエス様は「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と教えられました。「イエス様のために」を中心におくとき、それらの迫害は預言者たちが受けたものと同じでわる。それは大きな喜びだというのです。なぜならそれは神様のはたらきだからです。神様の働きに参与しているという幸いを受けているのです。
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