ヘブライ 10:35 自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。
キリスト教会には「受洗後3年目の危機」というものがあります。洗礼を受けた人々が教会から離れるのは3年目ということらしいです。信仰が与えられ燃え上がっていたキリスト者が、教会の現実と出会い、失望し、確信が揺らぐのです。ある教会では「羊を失うな」を宣教計画にしているところもあります。受洗者を多く与えられることも大切ですが、受洗したキリスト者を失わないことも同じように大切なことです。
本日の聖書に「あなたがたは光に照らされたのち」という言葉があります。これは洗礼をうけてキリスト者となったということです。その人々に「苦しい大きな戦いによく耐えた初めの頃を思い出す」ようにと勧めています。時間がたって冷めやすくなった信仰を、洗礼を受けた初めの頃を思い出してほしいと願っています。洗礼を受けた初期にあるのは「確信」であったはずです。この「救いの確信」があったからこそ苦難、試練、迫害に耐えてきたのです。しかも、この「確信」は個人のものではなく、教会の交わりにある共同体としての「確信」でもあったのです。この「確信」のゆえに大きな報い「永遠の生命」をただいているのです。
私たちのルーテル教会では、毎年190名程の受洗者があります。しかし、10年後に教会で信仰生活を送っている人は1割しかおられません。ということは毎年20名弱の信徒しか増えていない計算にあります。ところが召天される方は毎年180名ですから、教会員が減少しているのは当然のことです。受洗して3年までが一番大切です。この時に教会を離れれば、交わりに戻るまでにかなりの時間が必要です。教会を離れる理由は、教会の中での人間関係、教会に喜びがない、福音を聴くことができない、そして確信が揺らいだというものです。信仰は神様と私の関係と言われますが、信仰告白は交わりの中で行われます。この教会共同体としての信仰の確信を持っていないと、常に確信が揺らぐことになります。信仰者の交わりの中心に、イエス様のみ言葉があるかを問われています。
ヘブライ書の著者は「自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります」と教えています。自分の確信とは、恵みの座に近づくことができるという確信、共同体としての信仰告白の確信です。この確信を共に持つことができるのが教会です。教会は聖徒交わりと言われます。この交わりとしての信仰告白が確信を与え、救いという大きな報いへと導くのです。
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