マタイ 3:10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
新興宗教の特徴は「この世の終わりがすぐ来る」と叫ぶことです。終末思想からくるのでしょう。この世の終わりが来るということで恐怖心を与え、それから逃れるには自分たちの教団を信じるしかないというのです。これまでも多くの新興宗教ができました。しかし、大抵は詐欺のような宗教が多く、お金をだまし取られたという被害があります。洗脳というものもあります。恐怖をあおるときに「この世の終わり」を叫ぶことに騙されてはいけません。なざならそれは神様が決められることで、人間にはわからないことだからです。
マタイによる福音書は、イエス様の宣教開始の前に洗礼者ヨハネの活動を記します。洗礼者ヨハネは、ヨルダン川の下流地域で独特な宣教活動をしていました。その活動は、彼の死後もヨハネ教団として独特な宗教性を持ってのこりました。洗礼者ヨハネの宣教の特徴は、「終末観」です。まさにすぐそこにこの世の終わりが来ているというかなり緊迫感をもったものでした。すでに斧が木の根元に置かれている。悔改めなければほろびるということでした。私たちキリスト者も、この緊迫感を人生の中に持っているかを問われています。神様の裁きはすぐそこにまできている。その裁きにたえられるような良い実をむすんでいるかということです。また洗礼者ヨハネは、自分の後に来る救い主についても語ります。悔改めのあとにくる福音について指示しておるのです。
アントニー・デ・メロさんの黙想説教集を読みました。その第一編の終わりに一つのたとえ話がありました。 「観光客の一団を乗せたバスが、目の覚めるような美しい田園地帯を走っている。湖、山、草原、川が次々と姿を現す。しかし、窓の日除けはおろされている。乗客たちは、バスの窓の向こうに何があるのか知ろうとしない。旅行中ずっと、誰が上席につくか、誰が拍手喝采を受けるか、だれがよく思われるか言い争ってゆく。旅が終わるまでずっと」。これはどんなたとえ話でしょうか。ある人にとっては人生のたとえ。ある人にとっては、いま忘れかけている信仰のたとえかもしれません。私たちにとっては、今日をどのように生きるかのたとえです。大切なことを見失ってはいないか。見なければならないものを、見ていないことへの気づき。そして悔改めです。
洗礼者ヨハネは「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と忠告しています。斧は既に木の根元に置かれている。そのことを知ろうとも、見ようともしないならば、悔改めなどおこりません。悔改めがなければイエス様の十字架に出会うことはありません。良い実を結ぶには、まず悔改めることです。そしてイエス様と出会うことしかないのです。
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