ルカ 7:8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。
「あなたは誰ですか」と聞かれたとき、私たちは名前を答えます。しかし、「それでは、あなたは何者か」と聞かれたら。また「どんな人ですか」「あなた自身を説明してください」と聞かれたら何とこたえるでしょうか。つきつめて聞かれれば、自分のことが自分ではわからなくなってきます。本当の自分とはいったい何だろうかと考える時があります。
本日の聖書で百人隊長は「ひと言おっしゃってください」といいました。この言葉の背景には、イエス様の御言葉の力を信じている信仰があります。人間の私を見つめたら何もできないけれど、あなたの御言葉には人を癒す力がありますと信仰の告白をしているのです。イエス様もまた、彼の信仰を認めておられます。それは本当の権威は神様の御言葉にあることを彼が知っていたからでした。私たちは自分を見つめるのは苦手です。しかし、勇気をだして自分を知ったとき、神様の御言葉が命として与えられます。イエス様の御言葉には力があります。イエス様の御言葉が実現しないはずはない。それは神様の言葉だからです。百人隊長は神様の前に自分は何者であるかを知っていたのです。そのうえで、神様の御言葉にすべてゆだねたのです。
ソクラテスの有名な言葉に、「きみがよい妻を持てば幸福になれるだろうし、悪い妻を持てば哲学者になれる」というものがあります。とてもユニークな言葉です。そのソクラテスは、デルフォイの神殿の入り口に掲げられていた碑文を自分のモットーとしました。その碑文には「グノーティ・サウトン」と書かれてありました。この言葉の本来の意味は「身の程を知れ」と訳されるものでした。しかし、ソクラテスはこれを「汝自身を知れ」と読んだのです。そして自己自身を知ることを哲学の目的としました。
私たちは、自分を知ることが苦手です。むしろ本当の自分を知っているので、そのことを考えたくないのかもしれません。しかし、自分は何かを知ることが、神様を知ることなのです。自分を見つめ、自分の愚かさに気が付いたとき、神様の存在に出会うといえます。なぜなら、どうしようもない存在としての私がここにいるからです。
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