ルカ 10:42 必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。
「相田みつおカレンダー」には次のような言葉があります。「親切という名のおせっかい そっとしておく おもいやり」。私たちは親切という名のもとに、おせっかいをしていることがたくさんあります。そして、そのおせっかいに人を巻き込んでしまうこともあるのです。
イエス様の過ごされた時代は、女性が男性を迎える習慣はありませんでした。つまり普通ではなかったことです。しかし、ここでイエス様は、男と女の差別や区別などなさいませんでした。同じ人間として接しておられます。ということは、当然なこととしてマルタとマリアをも差別なさるはずはありません。同じ目でみておられます。決してどちらか一方に思いを寄せてはおられないのです。人間の目からみれば、マルタはどのようにイエス様をもてなすかと働き、マリアはイエス様の足元に座っているのです。マルタから不平不満がでてきてもしかたありません。マルタの主張は、「マリアは私だけを後に残して、自分だけ主の言葉を聞いている。マリアも私を手伝って主のもてなしの用意をすべきだ」ということです。自分だけが働くことの不当を訴えているのです。しかし、イエス様を迎え入れたのはマリアではなくマルタなのです。
「あれは本当に親切だったのか」という思い出があります。小学五年生の夏でした。下校の途中、あるお年寄りの婦人に道を尋ねられたのです。元気そうなおばあちゃんでしたから、六十歳くらいだったかもしれません。その方が、「電車の停留所はどこですか」と聞かれたので張り切ってしまい、わずか目の前にある停留所まで連れていったのです。しかも、「大丈夫です」というのを無理やり荷物を奪い取り、手までひいて送り届けたのでした。一週間後、朝礼の時に全校生徒の前で壇上に立たされました。なんとその方が名札をみて、学校にお手紙をくださったのです。「この世界にこんな優しい小学生がいて感動しました」という内容のものでした。いま考えると、穴があったら入りたい気持ちです。もちろんお礼を言われたくてやったのではないですが、それが適切な親切であったかと考えると心配になってきます。一応感謝されましたので、これでよしと思いますが、それが本当はおせっかいになることもあるのです。
イエス様の前に立つ時の、思い悩みにならない奉仕。心を用いる奉仕はただ一つだけです。「主の足元に座って聞く」奉仕です。ここにマリアの奉仕があるのです。それは、マルタがどんなことをしてもマリアから取り去られない奉仕であり、イエス様の喜ばれる奉仕でもあります。イエス様は「必要なことはただ一つ」といわれました。それは、イエス様にとっても、マルタにとっても、マリアにとっても一つなのです。つまり御言葉を聞くことです。
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