マタイ 6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
子どもたちが喧嘩をするとき最後の言葉は「絶対ゆるさない」というものです。この「絶対」という言葉に「ゆるさない」ではなく、「ゆるしたくない」という強い思いみます。人間は「ゆるさない」ではなく「ゆるしたくない」という存在なのでしょう。自分がゆるされていることは棚に上げて、人をゆるしたくないと言っている姿を神様はどう見ていらっしゃるでしょうか。微笑みながら、しかし真摯にみておられるように思います。
イエス様は祈りについて教えられました。イエス様にとって祈りは、神様とのごく自然な交わりでした。ですから祈りを宗教的儀式としては扱っておられません。「主の祈り」といわれるイエス様が教えられた祈りも、神様を「父よ」と呼びかけています。そのなかで赦しのことが祈られ、神様との関係において赦しが語られていることがわかります。
ある礼拝で、賀来周一先生が説教をされ、「赦す」ということを話されました。先生は「人間というのは、ゆるしがたいものを持っている。人をゆるすことは難しい。いっぺんに相手をゆるすことはできない。それができるのは神だけ」と話されました。それではどうやって「赦す」ことができるようになるか。それは、生活の断面一つ一つを思い起こすことだそうです。たとえば大根を輪切りにするように、いくつかの場面にわける。それらの部分・部分で、その時に自分はどうしたか、相手はどうしたかを検証する。その作業をすることによって、少しずつ人をゆるすことができるようになると。そのようなワークショップがあるそうです。それでも本来「赦すこと」は、神様の領域のことがらなのです。神様にすべてをゆだねることが確かなことだとも教えられました。
イエス様は「もし人の過ちを赦すなら」と言われました。まず自分から赦すことをしなさいと教えられたのです。赦しがたい事柄でも、その中に働かれている十字架の愛を知り自分はどうなのかを考えることです。私の方から赦すことがないならば、神様も私をお赦しにはならないと思います。
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