マルコ 1:11 あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者
進学か就職かについて悩んでいる学生からの相談を受けました。自分の思いや、やりたいことを親がわかってくれない。そんな親は親として認められないと。それを聞きながらスリランカの言葉を思い出しました。「子どもに対する親の気持ちは骨髄まで響く。でも子どもはそれを知らない」というものです。親が分かってくれない、親として認めないではなく、きちんと親の気持ちを受け止める努力はしたのかと聞いてみました。子にたいする親の気持ちは骨髄まで響いている。それをわかった上で、自分の考えを相談したらと話しました。
イエス様の公生涯は洗礼を受けることから始まります。マルコによる福音書では、人が洗礼を受けるのがごく自然なように、イエス様も「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」としか書いてありません。マルコは、人としてあたりまえの出来事であるようにサラッと記しています。ただ重要なことは、そこで神様の言葉「あなたは私の愛する子」があることです。イエス様は「神様の子」であることの宣言が、私たちの信仰にとって一番大切であり、はじめに示されたことなのです。マルコによる福音書に神様の言葉が出てくるのは2回しかありません。「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」という御言葉は、それほど貴重な言葉です。
天に召された、谷口恭教先生は熊本弁をよく教えてくださいました。今年の夏はとても暑かったので、「脳のうっだすごつ暑かぁ」(脳が飛び出すくらい暑い)という言葉を教えていただきました。熊本ならでの表現だなと感心しました。先生はある方への手紙の中で、「脳のうっだすごつ暑かぁ」ときに、ふと爽やかな風が吹いてくることがある。その風を感じた時に神様がここにおられることを知ることができたと書いておられました。厳しい状況の中でこそ、神と出会える一瞬がある。神の言葉と出会う一瞬があるのです。
イエス様は自分が神様の子であること、神様の心に適う者であることを受けとめておられました。その骨髄にまで響く神様の心をわかっておられます。その御心が十字架の死であっても、み心に添ってその道を歩まれたのです。神様は私たちも子としておられます。そのみ心は知ることから始めたいと思います。
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