箴言 13:20 知恵ある者と共に歩けば知恵を得、愚か者と交われば災いに遭う。
土曜日に行われた九州セミナリオで「東日本大震災を経験したルーテル教会は、この活動の中でどのような神学を生み出したか」という質問がありました。「神学」という言葉に、少し驚きました。震災の神学を生み出すために活動したわけでなく、どのような神学を生み出せばいいのかとおもったからです。ただ、神学とはいえませんが。「となりびと」という御言葉から「寄り添いびと」に言葉が変化したことに一つの答えがあるように思えます。「となりびとになる」ということは「寄り添い人として共に歩む」ということだと言えます。そこにルーテル教会の震災神学があるのではと思います。
箴言の13章は教育に関する格言です。「子は父の諭によって知恵を得る」という言葉から始まります。実はこの文には動詞がないので、翻訳には少し無理があります。あえて「父」を動詞の「愛する」に変更して、「賢い息子は諭を愛する」と翻訳している注解書もありました。父がどんな存在として共にあるか、それは子に知恵を与える者であることを示しているように思えます。親子の関係で必要な物は、あるときは上下関係かもしれません。しかしあくまでも共に歩むという基本姿勢がなければどんな関係も壊れてしまいます。
エクササイズ本の中でメトカーフという人が次のように書いています。「生身の人間であれバーチャルなものであれ、サポートしてくれる存在を持つことが成功の秘訣だ」と。彼は「自分自身の力だけで減量できる人は10人に1人だが、仲間のサポートがあれば10人に7人は減量できるようになる」と説明していました。初めからペースを上げることはせず、プロのトレーナーに頼り、ブログや電子メールで仲間に成果を報告するように勧めています。誰かが共に歩んでくれること、その人がどのように共に歩むかが大切です。やはり人は一人ではないことで生きることができるのです。
箴言は「知恵ある者と共に歩けば知恵を得る」と教えています。私たちは共に歩むときに、自分の心地よい人と歩むことを選びます。しかし、自分に心地よいだけではいけないのです。自分のことを本当に愛し、支え、時には忠告してくれる人と共に歩むことが必要です。そのような人生の中で、イエス様が共に歩んで下さるということを考えてみたいと思います。
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