ヨハネ 3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
先日、FM東京から電話がありました。昨年収録した番組を再放送したいということでした。明日土曜日の午後5時、サントリーウイティングバー「アバンティ」という番組に出演します。クリスマスツリーについて話しています。この番組では、アナウンサーの方との問答ですすめられていきます。何を聞きたいか、何を答えたいかを考えながらの収録でした。再放送されるということで、とても嬉しくおもいました。きっと企画にかなったのでしょう。
ファリサイ派の議員であったニコデモが、イエス様のもとにやってきます。イエス様の教えと存在が気になっていたのでしょう。しかし、2人のやり取りは「かみあい」ません。イエス様が言われることを理解できなかったようです。この最初で噛み合わなかった問答は最後までつづきました。なぜ噛み合わない問答になったのでしょうか。それはニコデモの先入観、自分の考えに固執したからではないでしょうか。問答をするときには相手を受け入れる姿勢がなければなりません。イエス様との問答には信仰がなければ成り立たないのです。
テレビのアンテナの調子がわるく、ラジオを聞いています。テレビと違って座って観る必要がなく、聞きながら別のことができます。そのラジオ放送を聞いて、最近面白いことに気がつきました。言葉のやりとりしか聞けずその人の状況は見えません。見えないから言葉に集中します。一般参加の放送ではインタビューがあります。ところがアナウンサーの質問に、きちんと答えられる人が少ないということです。「何を」聞かれているのか、それに対して「何を」答えればいいのかを点検してみる必要ありです。質問力、解答力という言葉があります。「何を」ということをよく考えなければならないと言えます。
イエス様は「っきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。ニコデモは、イエス様が言われていることの意味がわかりませんでした。み言葉を聞く力、質問する力の根底には信仰が必要だと思います。明日からアドベント(待降節)の季節です。この季節,神様は「何を」求められているか考えてみましょう。イエス様の誕生をお迎えする私たちの心を整えてまいりましょう。
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